まだおかめが4、5歳くらいの時のこと。
伊豆で暮らしていた父方の祖母の言葉が
子ども心に衝撃的だった。
その時のことを鮮明に覚えている。
「おじいさんが死んだら、あんたち(あなた達の家)に遊びに行くよ。」
子どもなりに「死」に対するイメージがあったのかもしれない。
「死んだら」という言葉があまりにも軽くサラッと使われていたことに驚いた。
人生の折々にふとその言葉を思い出すことがあった。
おかめもその時々の年齢なりにおばあちゃんの言葉の背景と意味をぼんやりと考えてきた。
おかめはいつでもぼんやりだ( ᐙ )
おじいさんは中風、今で言う脳梗塞の後遺症でいつも奥の和室で長い間寝たきりだった。
おばあちゃんは1人で介護していて、
パラマウントベッドもない。
今のように介護保険もなく、ヘルパーさんもいない時代だから大変だっただろう。
それこそ、息子の家に泊まりで遊びに行くなんてことは出来なかった。
だからあの言葉になったんだと思う。
子どもの時には「死」が何だか得体の知れないもので、オバケとか幽霊と結びついてとても怖いものだった。
60歳も近くなれば病気をしたりして
もう少し身近なことになってくる。
人の死も幾度か見てきてわりと慣れてもくる。
90歳もすぎればなおのこと、
そろそろお迎えが来るかな?なんて
「死」を意識せずにはいられないだろう。
つい先日、じいじの一番下の弟が亡くなった。
それからじいじは何となく元気がなく、
昼間から横になって寝てばかりいる。
弟の死が結構こたえたかもしれない。
聞いてみないとじいじの本当の気持ちは
分からないけど、
寂しい悲しい⋯( ;ᵕ; )
俺より若いのに⋯
亡くなる前に会いたかった⋯
次は自分かもしれない⋯
昔一緒に遊んだなぁ⋯
目をつぶってそんなことをあれこれ考えているのかもしれない。
しばらく前にこんな本を読んだ。
『喜びから人生を生きる!臨死体験が教えてくれたこと』
『もしここが天国だったら? ― あなたを制限する信念から自由になり、本当の自分を生きる』
(アニータ・ムアジャーニ著)
読んでみての感想、「死」は怖いものではなく、あの世は何だかよいところみたいだぞ?!
むしろ楽しみのような気もしてきた。
«٩(*´ ꒳ `*)۶»
うん、生きてよし、死んでよし!だ。
死を目前にした時、本当にそう思うかどうかはその時でないと分からない。
きっと後悔しきりなんだろうなぁ。
いつもぼんやりしてるから( ᐛ ).。oஇ
またねーーー(^_^)/~~~
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